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論文要旨(博甲第2号) 博士学位論文

論文要旨(博甲第2号)

氏名(本籍) 内田 寛樹(福岡県)
博士の専攻分野の名称 博士(経営情報学)
学位記番号 博甲第2号
学位授与の日付 平成24年3月18日
学位授与の要件 学位規則第4条第1項該当(課程博士)
学位論文題目 イギリスにおける国際マーケティング展開試論
論文審査委員 主査 教授  阿部 真也
副査 教授  深町 郁彌
副査 教授  野田 富男
論文内容の要旨  本稿は、19世紀後半から20世紀初頭のイギリスの東アジアにおける紡績製品の貿易取引のなかに、その取引形態の移行において国際マーケティングの端緒的な形態がみられたとする仮説的検証を行ったものである。マーケティングは独占段階の産業資本主導による管理においてのみ発生するというセオリーから、それを当該期のイギリスと日本の綿製品取引のなかにみて、内外の研究から当該期の綿製品取引の局面にそのセオリーをあてはめた。
 そのような検証を行っていくうえで基本となるマーケティング理論としてBartelsの環境主義的アプローチというものがある。これはマーケティングの形態がその国がもつ経済的・文化的・歴史的条件の違いに左右されてくるというものであり、本稿ではイギゾスとアメリカのそれを比較するという視角に立った。第1章では、このBartelsの理論の紹介と、そして国際マーケティングの代表的な定義、具体的にはBartelsと角松正雄、そしてCateora=Hessの定義を紹介した。そして、マーケティング史学会の新しい動向、それはアメリカのマーケティング史研究における自国中心主義的な考え方に対する反省から生まれた新しい考え方であるが、Fullertonのマーケティングの端緒的な形態をイギリス産業革命期の製造業者に求めるという概念なども紹介した。このFullertonの「近代西洋マーケティング型の考え方は、本稿の行論を進めていく上で、ひとつの基盤となるものである。
 つづいて第2章では、イギリスが日本における綿製品取引を行ううえで舞台となったわが国の諸開港場の実際の貿易動向を、主にマーケティングが行われる素地となる産業資本の成長という視点から考察した。開港場というのは具体的には横浜と長崎である。当該期の両港の貿易動向を、府県物産表や外国貿易年表などから産業資本が形成される動向と貿易の関係を重視しながら述べた。結論としては、後背地に産業資本を抱えることができなかった長崎は近代以降衰退し、対して産業資本と直結し物資の流通拠点でもあった横浜が近代以降大いに成長をとげたというものである。イギリス綿製品の取引が盛んに行われ、産業資本が成長し当該期にイギヅスの国際マーケティングが行われた横浜の貿易取引の背景がみてとれた。
 第3章では本稿の行論を展開するうえで重要となってくる論議を検証した。古田和子は「上海ネットワーク」論として当該期の東アジアにおけるイギゾス綿製品の貿易取引が上海市場を介して中国商人によって独占されていたとした。これに対して高村直助は中国商人による独占は一時的なものであり、領事報告などの資料から検証する限り1880年代になってくると、交通通信革命によってイギリスからの直接輸入が可能になり、担い手もイギリス商人に変わっていったと反論した。この論議を検証し、高村がその批判的コメントのなかで述べたイギリスからの直接的輸入が可能になったというなかで、イギリス製造業者による取引管理が可能になり、筆者はそこにイギリスによる国際マーケティングの端緒的形態の存在を導き出すヒントを得た。
 第4章では、実際の当該期のイギゾスの東アジアにおける国際マーケティングについて、内外の2つの研究から検証した。Nicholasは、当該期のイギリスの国際マーケティングは現地の流通システムなどに依存しすぎて失敗したとするこれまでの学界の潮流を否定的に捉え、販売員システムなどイギリスがマーケティングを行ううえで条件となるものは進出先各地に存在したことを述べた。これに対して日本の流通史の研究者である杉山伸也は、Nicholasの見解を肯定しながらも、日本の場合は「開港場システム」なる取引システムが存在し、イギリスのマーケティングは必ずしも成功しなかったことを述べた。この章の最後では、イギヅスのアジア貿易における最大の貿易商社である『マセソン商会』の石井寛治による実証分析を参考にして、その取引形態の移行、つまり買取方式から委託販売方式への移行のなかにイギリス製造業者の直接的管理の一側面をみた。
 最後に第5章では、イギリスの当該期の国際マーケティングが第4章でも述べた『開港場システム』によって限界が存在したことに触れた。イギリスはその外国貿易において自由貿易帝国主義』を標梼したが、それは日本においては『開港場システム』に阻まれて必ずしも成功しなかった。「自由貿易帝国主義」は相手国のこれまで培われてきた個性を破壊するのではなく、相手国と相互に依存しあいながら展開された。日本の場合は「開港場システム』が障壁となってイギリスの国内市場への進出がうまくゆかず、そこにイギリス産業資本の日本進出に限界があったというものである。
 本稿では、アメリカ・マーケティング史学会の新しい動向から生まれた新しい概念を土台として、19世紀後半から20世紀初頭の東アジアにおけるイギジスの国際マーケティングを検証した。アメリカの自国中心的な観点からのマーケティング史研究の反省から、マーケティングの端緒的な形態を産業革命期のイギリス製造業者に求める新しい概念が近年登場した。そしてそれにつづいてさまざまな新しい視角・視点が次々と導入されている。今後もこのような国際マーケティングに関する新しい考え方が各国の商業史・流通史に適用されていくことを願うところである。
論文審査の結果の要旨  今回提出された学位論文は、筆者内田氏の東アジアと日本を含む明治前期の商業ネットワークの研究をベースにしながら、それに最近注目されている国際マーケティングの観点を加えることにより、19世紀後半以降のイギリスにみられた国際マーケティングの端緒的形態を析出しようとする、注目すべき論稿である。
 もちろん、国際マーケティングについての研究は、すでに内外に数多く見られる。しかしそのほとんどが、第2次大戦以降のアメリカの国際的展開を念頭に置いたものが通説であった。しかしアメリカの学会においても、最近では国際マーケティングの存在をアメリカ合衆国のみに固有の産物とみる「自国中心主義的」な思考に批判的な動向も見られるようになっている。内田氏の論文がこのような新しい潮流、つまり多様な国々の比較研究を重視するR.Bartelsなどの主張を敏感に受け止めたものであることは言うまでもない。
 さらに、19世紀後半以降のイギリスとアジアとくに日本との国際的流通(商業とマーケティングの交錯したものとしてこの言葉が使われる)を分析した内外の著名な歴史研究者の間で、国際マーケティングという用語を用いてこの時期の国際的流通を記述したものが多く見られるようになった事実が、内田氏の論旨を補強することになった。S.J.NicholasやS.Sugiyamaの見解、さらに石井寛治のマセソン商会の研究などがそれであるが、さらにP.J.Cain and A.G.Hopkinsの”The Economic History Review”の論文なども、この時期のイギリスのアジアや日本に対する国際マーケティングの必然性を明示してくれる。
 このような内外の新しい研究動向を反映した内田氏の研究であるが、しかしそれが新しい視点を含むものであるだけに、合計6回にわたる審査委員会で多くの疑問や批判も提示された。その主要なもののみを列記する。(1)アメリカとイギリスの歴史的環境条件の比較と相違を重視するなら、売買商品の取引関係や販売経路(チャネル)だけでなく、アメリカよりもかなり早期に国際マーケティングの展開を可能にした、ロンドンを頂点とするピラミッド型の国際的通貨信用体制の構築や、欧州からアジア・日本への直行船便の整備、さらには電信の発達などの情報技術革新の研究が必要である。(2)マーケティングの今日的な概念枠組みの中心は、製品開発・価格政策・チャネル管理・情報管理(広告)など、マーケティングの4P政策と呼ばれる諸要因の統合的管理である。したがって国際マーケティングの歴史的展開をフォローする場合でも取引関係やチャネル管理だけでなく、4Pのより統合的な視点からのアプローチが要請される。(3)より基本的な問題として、提出論文では内外の研究者の文献が多数参照されているが、しかしそれらの多くは19世紀後半前後のイギリスや日本の生(なま)の第1次的原資料ではない。これらの原資料に立ち戻って考察を深めることが必要であり、これは困難な課題ではあるが、しかし歴史的研究を深めるためには避けて通れぬ課題である。
 ただ、これらの問題点や課題の提起は、決して本論文の欠陥のみを意味するものではなく、むしろ本論文の創造的で意欲的な性格を反映したものとも言える。内外の最近の研究動向に立脚して、明確な問題提起と問題解決に向けての接近方法も示されており、時間をかけた中・長期的な努力を通じて、貴重で多大の学問的成果が期待できるものと考えられる。本論文はその第1歩を示すものであろう。
よって本論文は、博士(経営情報学)の学位を授与するに値するものと認める。